またまたすご〜い本に出会ってしまいました!
川上未映子さんの「ヘヴン」。
おもしろくて途中でやめられず、一日で読んでしまったほどです。
(ワタシは通勤時間以外はほとんど読む習慣ないのに、家に帰ってからも読み続けてしまいました…)
以下、ネタバレしてしまいますが、書いておこうと思います。
中学2年生の「僕」(最後まで名前が出てきません)は、学校で酷いいじめに遭っています。
前半は、その壮絶ないじめ体験が語られ、読み進めるのがかなり辛かったー。
「僕」はそれを先生にも親にも言いませんし、言おうとも思わない。「自分はまだまし」と思いこもうとしています。
そんな「僕」がある手紙を受け取ります。それは、同じクラスの女の子、コジマからの親しみをこめた手紙でした。コジマは女子からいじめをうけていたのでした。
二人の交流が始まります… お互いの存在が心の支えとなっていくのでした。
「ヘヴン」とは、コジマの好きな絵。それを美術館に二人で見に行くのですが、結局、「ヘヴン」をみることなく、帰ってきてしまいます。
物語は後半、たんなる(といっては失礼かもしれませんが)いじめの話から、壮大な、世界観が繰り広げられる…ともいえる展開になります。このへんからが、川上未映子さんの凄さを感じるところでした。
いじめっ子の「百瀬」と「僕」との会話(論争)、コジマの「いじめ論」、それぞれに読み応えがあると思います。
カンタンに言ってしまえば、「人は欲望のままに生きてよい、(いじめも)したいからする、それだけのこと」という百瀬と、「いじめられること、その苦しみには意味がある。それは必ず報われる」というコジマ。
「僕」はそのどちらにも反論できないが、腑に落ちない。
「僕」の内で、この二人が言葉がひとつのものになっていく場面が印象的でした。
「世界に意味などない」「すべてのことに意味がある」この正反対にきこえる二つの考えが、実は表裏一体だったと僕は直感したのかもしれません。
僕とコジマの二人が、いじめっ子たちに呼び出され、恐ろしいことが起ころうとしている場面はまさにクライマックス。大雨と雷の中で、コジマはあることをするのですが…。
その事件を契機に、僕の前に新しい展開が訪れます。
僕は、「斜視」のせいでいじめられる、この斜視は直らないし、いじめも終わることはない、と自分で決めていたようなところがありました。
しかし、百瀬に、「いじめは斜視のせいではない」と言われたこと、別の件で行った医者から、「斜視の手術は簡単でしかも安い」と聞いたことで、「斜視の手術を受ける」という道を選ぶことにします。そこには、母(継母)の後押し、母と僕とのとってもよい会話がありました。(この継母の描き方がよかったです)
「ヘヴン」を読み終えたあとに、内田樹さんの「呪いの時代」という本を読んだのですが、
「僕」はまさに、「呪いの時代」を抜け出て「祝福の時代」を生きるようになったのではないかと思いました。
自分を呪う人生(いじめからは抜け出せない、斜視は直せないと思い込んでしまう)から、自分を祝福する人生(斜視を直してよいし、いじめのない世界へ逃げても良い)への転換。
もちろん、自分だけで転換したというより、コジマの「献身」やさまざまな出会いの中で起こったことなのですが。
そしてラストは、その祝福をみごとに表したような、目の手術を終えた「僕」が見る「新しい世界」の圧倒的な描写で終わります。それは「僕」にとっての「ヘヴン」=祝福の世界だったのでしょう。
内田さんの本にもあったのですが、「僕」は、百瀬やコジマのように「観念に生きる」のではなく、自分自身の目で、世界そのものを見るという「生身の体験に生きる」ようになった、といってよいのかもしれません。
まあ、いろいろと物議をかもしている話題の本ですが、ワタシは楽しめました。ラストに救いがあったのがよかったですし…。
川上未映子さん恐るべし!
そして、内田さんのこの本(↓)もまだ読みかけですが、おもしろいです〜
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